杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

伝説は話半分に

かつてライターとして最前線で活躍し、今は現場を退きオフィスで編集業務をやっている人は少なくない。

しかし私の知るそういう人の中に、自分の現役時代の活躍をめっぽう誇らしげに話す人がいる。自分は月に二十本くらい取材に行くのが普通だった、メモもまったく見返さずに原稿を書き、まったく修正が入らなかった、などなどのエピソードを連ねる。

これらはたいてい、今の現役ライターたちはへなちょこだ、といったことを言いたいために用意された逸話であるようだ。もちろん、では当時書いた原稿を今見せてくれるのかというとそんなことはなく、そういう逸話が本当にすごいことだったのかは検証のしようがなくなっている。つまり伝説化されているのだ。たった十数年前の逸話が、である。

ライターに限らない。例えば営業職の人でも、自分は若手の営業マンだった頃は部内で圧倒的に売上一番だった、非の打ち所のない仕事ぶりだった、などと言う人がいる。これも当時の本人のことを知る人にその仕事ぶりを聞かないことには確かめようがない。要するに伝説なのである。

私はこの手の武勇伝は話半分に聞くことに決めている。こういうのを真に受けてしまうと、今の自分を必要以上に非力に思ってしまい、ひいては責めることにもつながるからだ。とはいえ、月二十本取材に行っていたなどというのは普通にあまり大したことではないと思う。

かつて私はこういう伝説をリアルに想像し、相手をすごい人だと思い込んで心酔していた。相手は私が逆立ちしてもかなわないほど高みに到達しており、その差は簡単には縮まりそうにない。少し縮んだと思ったらまた新たな伝説が出てきてさらに遠く突き放されるような気がしたものだ。

けれどもある時期に思った。こういう人は、単にワタシはすごかったオレは強かったと言いたいだけなんじゃないかと。また、仮に想像した通りのすごい出来事が本当に起きていたとしても、私がそれを再現しなくてはならないわけではないし、私は私で仕事を通してそれなりに評価されているじゃないかと。

もちろんそういう人たちはそれなりの実績をあげて現在の地位を築いたのだろう。その点は認めるべきだが、だからといって伝説を真に受け、自分を責める必要はない。

伝説を喧伝する人は、恐らく、後輩や部下に自分を偉い人間だと見せたいのだろう。お前はまだまだダメなんだ、俺よりぜんぜん下なんだぜ、というような。ちなみに私が知る人の中には、竹中労などのエピソードや作品を持ち出して、これに比べたらお前の文章なんててんでダメだね、みたいに私に言ってきた人がいる。まったくくだらない馬鹿な奴だった。

職種が何であれ、先輩は若手を見下したがるものだし、私にもそういう面はあると思う。ひょっとしたら、自分の大したことない経験を伝説のように後輩に語ってしまっているかも知れない。