杉本純のブログ

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日本語の翻訳

以前、あるライターが、お金を稼げるライターとは、日本語をよりわかりやすい日本語に変換する翻訳家だ、と言っていたのをネットで読んだ。

なるほどと思った。お金を稼げるかどうかは別として、優れたライターとは、語彙が豊富で、表現の仕方もよく知っており、取材対象が話した内容を読みやすい文章に変換できる人だと私も考えている。

澁澤龍彦の『魔法のランプ』(立風書房、1982年)に収められている「コクトーの文体について」には、ライターならぬ詩人のジャン・コクトーが「スタイルとはなにか」について語ったこんな言葉が引用されている。

多くのひとにとっては、それは単純なことを複雑にいう方法だ。しかし僕にとっては、それは複雑なことを単純にいう方法にすぎない。

ここで書かれている「スタイル」は、「文章」と言い換えても良い気がする。私にとって文章とは、複雑なことを単純に言う方法である。しかし私の知る人の中には、ごく単純で簡単なことなのに、そこに余計な能書きなどをくっつけて複雑かつ難解なものにしてしまう人がけっこういる。

とまれ、「翻訳」とは言い得て妙だ。伝える側は、相手の知的レベルなどが分かっていなくては翻訳できないだろう。

その点について、私はこのあいだ面白い経験をした。八月六日の広島での平和記念式典の記事が新聞に載っていて、その中に、手を合わせる女性とその子供の写真があった。それを見た私の子供が、この写真は何だと聞いてきたのだ。当人はまだ広島も戦争も原爆も知らないので、私はどう説明したものか迷った挙げ句、こんな風に説明した。

「広島という街があって、そこで昔、大きな爆弾が爆発してたくさんの人が死んだ。その人たちに向かって、安らかに眠ってくださいと祈っているんだよ」

この説明が充分だったかどうか、分からない。けれども、これはある意味で、新聞記事の主旨の「翻訳」ではないかと思った。受け取る側が理解しやすい言葉を選んで使うということ。平和記念式典とか原爆とか慰霊とか言っても、子供には通じなかっただろう。