杉本純のブログ

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天才雑感

中野孝次の『対談 小説作法(さくほう)』(文藝春秋、1983年)の大江健三郎との対談の中で、大江は、自分は樹木が好きだと言い、大きい木があると触らずにいられない、と話している。続いて、

これはやはり、子供のときに森の中に育ったことと関係があると思うんですね。一時期、そういう自分の性向を否定しようとつとめたこともありましたが、最近になって、子供のときに自分がやり始めた生活の様式、感じ方の様式は、そのまま取っておこうという気持ちになってきた。

と述べている。二人の対談は1982から3年頃に行われたようだが、だとすると大江は、四十代後半になってから自らの幼児期の癖のようなものを意識的に取り戻していった、と見ることができる。

天才的な才能を持つ人がひどく幼稚な一面を併せ持っている、というのはけっこう多く見聞きする気がする。ただし幼稚さを残していれば天才になれるわけではないと思う。

以前ある人が、子供は天才だとよく人は言うが、天才なのではなく、障碍物がないだけだ、と言っていた。そして、大人になるに連れて周囲からルールなどの制約が加えられて、それが障碍になってしまい、才能を発揮できなくなるのだろう、だから障害をどんどん取っ払えば、子供のように才能を発揮できると思う、と。

なるほど、だとすると大江は、大人になってから(何らかの制約を受けて)一時期に放棄していた性癖を取り戻すことで、自分の障碍になっていたものを払拭しようとしたのかも知れない。そこには、小説を着想しやすくする目的などがあったのだろうか。上記引用箇所は、その後べつの話に移ってしまってい、大江がそう考えた理由については書かれていない。

さて、とはいえ例えば音楽、絵画、または学問、スポーツなどなど何だって制約はある。小説だってある種の制約の下で書かれるはずなので、それを取っ払えばいいわけではないと思う。むしろ本業の部分はきわめて意識を集中させ、それ以外のところでは放埒に過ごすということだろうか。