杉本純のブログ

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こじらせワナビの回顧4

私はすでにこじらせている物書きワナビだが、ある時から長い間、ワナビであることを周囲の人に秘密にしていた。

身近にいる人々が、物書きとか、文学全般にあまり関心がない人ばかりだし、そればかりか、そういうのを目指していると私が話すと、大笑いし、馬鹿にしてくるだろうと思っていたからだ。これは、私が実際に学生時代に「俺は将来、映画監督になります」と誰にでも宣言し、本当に笑われ、馬鹿にされた経験があったからである。こういう経緯から、私は目標を宣言するのをやめていた。

しかし最近気がついたのは、「馬鹿にされるから言わない」などと思うのは単に自意識過剰なだけで、批判や揶揄も含め、他人の反応などまったく気にする必要はないということだ。だから今は、もちろん積極的に打ち明けようとはしないが、知られたら知られたで「ああそうですよ」と言ってしまおうと思っている。

私の近しい人に、ある国家資格取得を目指して勉強している人がいる。しかしその人は、そのことを周囲の人にあまり話していない。つまり私はその目標を知る数少ない人間なわけだが、私が他人にその人の目標を話したりすると、「言わないでほしい」と注意してくる。

しかし、べつに悪いことをしているわけではないから胸を張ればいいし、知られたくないことに特別な理由があるわけでもない。その人も、要するに自意識過剰なのである。

私はこれまで勉強して国家資格をはじめさまざまな資格を取った人、あるいは語学力を高めた人などに会い、経験談を聞いた。その人たちに共通していたのは、「自分の目標を周囲に話していた」ということだ。

自分の目標を他人に話すことにはいろんなメリットがあるようだ。まず、「自分はいついつまでにこの資格を取る」と宣言することで、それを嘘にするわけにはいかないので嫌でも努力しなくてはならなくなること。あるいは、周囲の人がその目標の存在を認知し、それに合わせた行動を取ってくれるということである。具体的には、どこかへ勉強しに行くのを容認してくれたり、時間の捻出を協力してくれたり、役立つ情報を提供してくれたりする、などである。

逆に人に話さないと、どうせ他人は知らないことなので本人は自由に勉強をサボれてしまうし、仮に身近な他人が役に立つ情報を持っていても絶対に入ってこないし、協力も得られない。だから、話すのと話さないのを比べると、ほぼ例外なく話す方が得なのだ。

物書きになる、特に文学、なかんづく私小説などということになると、私小説は周囲の人間のことを赤裸々に書いてしまうことがあるので、周囲の人は驚くかも知れないし、中には警戒するようになる人もいるかも知れない。だから私は、小説家になろうというワナビが周囲には話しづらいと思うことには共感する。無理もないことだとも思う。けれども、いずれ本当にその望みが叶ったなら、嫌でも周囲は知ることになるので、やはり早い段階で言っておくにこしたことはないだろう。また、全般的に目標は早く周囲に話してしまう方が良いと思う。