杉本純のブログ

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材料七分、腕三分

久しぶりに加藤秀俊『取材学』(中公新書、1975年)を読んだ。

奥付を見ると、2003年に私がこれを初読したことが記入してある。実はあまり内容を覚えていなかったのだが、今回ふと再読してみる気になり読んでみたら、取材をするライターの仕事について本質的なことが書かれていて驚いた。

本書の内容は、「Ⅰ 取材とはなにか」「Ⅱ 文字の世界の探検(その一)」「Ⅲ 文字の世界の探検(その二)」「Ⅳ 耳学問のすすめ」「Ⅴ 現地をみる」「Ⅵ 取材の人間学」という構成になっている。Ⅰは取材に対する著者の考え、ⅡとⅢは書籍や記事の探索法、ⅣとⅤはインタビューなどの取材について、Ⅵは取材者の心構えのようなものになっている。

さすがにインターネットがここまで普及した今、図書館の分類や索引について詳しく解説されても古いなと思ったが、取材というものの本質について述べた箇所、ⅠとⅥが実に正鵠を射ており、ライターや記者など取材をする立場にある人は一度は読むべきではないかと思った。

なかんづく面白かったのがⅠの冒頭の「材料七分、腕三分」である。加藤はここで、自分がかつて京都の複数の手仕事職人に取材した時の感想を披露している。

職人は大工もいればお菓子屋もいたが、彼らがほぼ共通して言ったのが、良い材料がなければ良いものは作れない、ということで、材料を形にする職人技についていろいろ聞かせてもらえるだろうと期待していたのが裏切られた、と加藤は述べている。そして、それは「情報」という材料を取得して(取材して)形にする学問や記事作成についても当てはまるのではないかと思った、と書いている。

なるほどその通りだと思った。実は私もこれと似た経験をしていて、ある建設会社の社長にインタビューした時、「段取り八分」という言葉を聞き、本番よりもその前の「準備」の方が大切だなと思っていた。

「材料」と「準備」ではちょっと違う。しかし、技術によって良くできるのはたかが知れたものであり、できあがる物の良さというのは、ほとんどそれ以前に決まっていると思う。

小説もそうだ。元になっているストーリーが面白くなければ、いくら文章を彫琢したり構成を練ったりしたところで面白くはならないのである。

以前、立花隆が文春の連載であるノンフィクション本を批判していて、それはストーリーテリングが駄目だから、と書いていたが、しかしそもそもどれだけ優れたストーリーテリングをしたところで元の素材が面白くないから面白くはならない、とも書いていた。

私が知るライターには文章に力を注ぐ人が少なくない。文章が巧いことがライターの能力のように思っている節もある。それ自体は間違っていないし悪いことでもないが、そもそも企画段階でどういう話を書こうとするのか、取材相手を誰にするのか、ということの方がずっと大切ではないだろうか。

加藤秀俊は1930年東京生まれ。専門は社会学である。大学や研究所で教鞭を執る傍ら、多くの本を出している。