杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

愚作を直して名作へ。

西永良成の『『レ・ミゼラブル』の世界』(岩波新書、2017年)は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の成立事情を、その中の「哲学的な部分」と呼ばれる、ストーリーとは直接関係のない、小説としては余計と思われる部分を切り口にして解説している。西永は、『レ・ミゼラブル』が全体としてはメロドラマの一面を持った小説でありながら、「哲学的な部分」があることで世界的な名作になった、としている。それは玄人的な読み方だろうが、まぎれもない事実だと私は思う。

レ・ミゼラブル』は、書き始められた当初は「貧困」を意味する『レ・ミゼール』という題であり、「哲学的部分」はなかったらしい。分量は『レ・ミゼラブル』の半分ほどで、主人公の名はジャン・バルジャンでなく「ジャン・トレジャン」だったようだ。つまり、メロドラマ的な『レ・ミゼール』はその時点では名作たりえず、「哲学的な部分」を足して分量を倍にし『レ・ミゼラブル』となったことで名作になった、ということだろう。

さて、私は近ごろ、自分の過去の作品を改めて発表するべく、読み返して修正しているのだが、若いころに書いた作品があまりに酷くて愕然とさせられている。なんというか、その頃の自分の知的レベルが絶望的に低いのを痛感させられるのである。

読み返して修正した作品の一つに、実体験を基にした、業界の底辺で彷徨う青年を主人公にしたものがあるのだが、これなどはもう、目を覆いたくなるほどに酷い。まるでDQNの生活を描いているような、登場人物たちがすぐ感情的になってぶつかり合う話になっていて、忸怩たる思いを抱きつつこれでは再発表などとてもできないと思った。

しかし、いくらか実体験を入れて書いたものであるだけに、事実が持つ力強さがあると思い、恥ずかしがることなく発表しようと考えている。

そして、最初に書いた時は気づかなかった、底辺に生きる青年のことが、今ではもっと俯瞰的に眺められるようになっているので、直し方によっては全体をぐっと押し上げることができるのではないかと思っている。