杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

自分軸、自己本位、漱石。

近ごろよく「自分軸」という言葉が耳目に触れる。
手元の辞書には載っていないが、使われ方から察するに、「“自分の内部”に設けられた、物事の判断や行動の基準」といった意味ではないかと思う。自分の内部に基準(軸)がある。だから「自分軸」である。

しかし、最近よく耳にするからといってべつに新しい概念ではないだろう。私は、恐らく夏目漱石が言った「自己本位」に近い言葉だと思った。そこで「自分軸 自己本位 漱石」で検索してみると…いくつかの記事が出てきて、思った通り、複数の人が漱石の「自己本位」を「自分軸」と同義に捉えている。

「自己本位」という語は、漱石の大正三年の講演「私の個人主義」で使われている。久しぶりに読んだ(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫)。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。

これは文学を究めようとしていた漱石が、単に権威的なものを聞きかじって分かったような気になっていたのに対し、それでは揺るぎない自信を身につけることはできないと悟ったと述べた箇所だ。

確かにその通りだと思う。そしてこれは文学でなくとも、例えば責任を持って行う仕事の担当業務、ひいては自分が選んだ職業についても同じことが言えるように思える。概念を自分自身で作り上げなければ、いずれ必ず同僚や上司や客に振り回され、自分を見失い、果ては疲弊してしまう。

「自己本位」という言葉に目覚めた漱石は、それから文芸とは関係ない書物を読み始め、自己の立脚地を建設していった。

 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。(略)今まで茫然と自失していた私に、此所に立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

自己本位でなければ新たな観点からの読書を始めようとはしないはず。つまり漱石は、自分が主体になったのだ。ここからさらに神経衰弱になるくらい仕事や学問に没頭したが、自己本位の考えはずっと続いたようだ。

思うに、自己本位でない人間は勉強しない。いや、勉強したとしても漱石がそうだったように、単なる受け売りにしかならない。自己本位で勉強すればこそ、初めて自分に納得感と自信を育むことができるのではないか。そのことを、百年以上前の漱石の言葉が教えてくれる。

私が漱石をよく読んだのはもう十年以上も前だが、漱石が近代作家の中でも特異な位置にある理由の一つは、このような、現代人にも通じる自我の課題を提示(予言)したことにあるのではないか。小説の面白さだけを見たら、漱石は決してそれほどの作家ではないと思う。

自己本位。いま風に言うなら「自分軸」。私自身も仕事や家庭において、自分の領地とするべきところを他人に明け渡してしまうことがなくはない。自分の行動を他人の判断に委ねてしまうことがなくはない。それで最近、ちょっと神経をすり減らしていた。

しっかり自分の内部の軸で物事を考え、判断せねばと思う。