杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

書店への訪問営業

同人誌と模索舎の思い出

宮後優子『ひとり出版入門』(よはく舎、2022年)を読んでいます。本書は「つくって売るということ」とサブタイトルにもある通り、自分がつくりたい本を、同人誌ではなくあくまで出版ビジネスという形でやりたい(やっている)人に向けた、本の作り方と売り方を伝える入門書です。

私はかつて文学同人に所属して同人誌をつくっていたことがあり、数年前にも一人で印刷所に発注して小説集を作ったことがあります。また、一人でできるビジネスとして出版社を選択肢に入れたこともあって、そうした経緯から、本書を手に取りました。今は「ひとり出版」は選択肢にはありませんが、本書を読んで感じるのは、自分が物書きとして活動する上でこういうのは知っておいて損はない、ということです。

入門書ということで基本的な情報が多いですが、得るものはやはり多いです。版元ドットコムは知っていましたが、それ以外にもさまざまな協会、組織が紹介されていて、ためになります。

95ページに掲載されているコラム「書店への訪問営業」は、訪問営業は書店との関係を深めるために良い機会であるとし、訪問する際に心掛けたいことが述べられています。私は同人時代に複数の本屋に行って店長と話し、同人誌を置いてもらい、集金もしたことがあったので、ある種の懐かしさがありました。

特に思い出深いのは新宿の模索舎です。私は当時、川崎市に住んでいましたが、同人誌が出るたびに小田急線に乗って新宿まで出掛け、模索舎を訪問して3冊手渡ししていました。店長にはその際によく雑談させてもらい、同人誌の表紙画像をホームページに掲載してもらってもいたので、感謝しています。だいたい毎号、1部か2部は売れていました。同人にとっては微々たる額の収入でしたが、すごくうれしかったのを覚えています。

2023年に読んだ本

収穫はモリナガアメの漫画

Twitterでフォローしている作家が、今年の何冊目、といった書き方で2023年に読了した本を紹介していました。

作家なので膨大な量を読んでいるかと思いきや、意外にも現時点でまだ十冊にも達していない模様です。まぁ速読や冊数が大事ではないことくらい、私もわかっているつもりなので、それほど驚きはしませんでしたが。

私はどれくらい読んだかというと、以下の通りです。

・モリナガアメ『話せない私研究――大人になってわかった場面緘黙との付き合い方』(合同出版、2020年)
・モリナガアメ『かんもくって何なの!?――しゃべれない日々を抜け出た私』(合同出版、2017年)
三田紀房ドラゴン桜』9巻(講談社、2005年)
・小林哲朗『夜の絶景写真 工場夜景編』(インプレス、2016年)

全編読んだのはこれくらいで、部分的に読んだものはざっと以下のとおりです。

バルザック「ゴプセック」(『ゴプセック・毬打つ猫の店』(芳川泰久訳、岩波文庫、2009年)所収)
松本清張「地方紙を買う女」(『松本清張短編全集06 青春の彷徨』(光文社文庫、2009年)所収)
・築山節『脳から変えるダメな自分』(NHK出版、2009年)
堀江貴文西野亮廣『バカとつき合うな』(徳間書店、2018年)
・芦川智編『世界の水辺都市への旅』(彰国社、2022年)
・小林昌樹『調べる技術 国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』(皓星社、2022年)

感銘を受け、収穫だとも感じたのは、やはりモリナガアメの二冊です。これらはいわば「場面緘黙症」に苦しんだ著者の自伝的な漫画で、壮絶な人生を生きてきた著者の生き様に心を打たれたし、このような「自らを語る方法」があるのだ、という意味で勉強もさせてもらいました。

言うまでもなく、これからもたくさん読みます。面白い本があったらこのブログで紹介していきたいです。

芥川賞と直木賞

ある書評家がnoteで芥川賞直木賞を紹介していて、「2023年前期」の受賞作を予想していました。その記事がTwitterで「文芸オタク以外には意外と知られていない、『芥川賞直木賞ってそもそも何?どういう作家に贈られる賞なの?』という解説を書きました!」というツイートと共に連携されていました。

芥川賞直木賞って、文藝オタク以外には(意外と)知られていないのでしょうか…。
私は文藝オタクではありませんし(自覚がないだけかもしれませんが)、私の知人に文藝に興味のない人は数え切れないほどいますが、誰でもさすがに芥川賞直木賞くらいは知っています。あるいは、出版界に身を置いていれば、その人は自社でどのような分野の本を扱っていてもまぁこの二つの賞くらい知っているに決まっています。学校の先生はもちろん、インテリであれば知らないはずはないし、もし知らなかったらインテリと呼ぶのはどうか…という気さえします。

さらに驚いたのは、その書評家のnoteの記事を読んだら、菊池寛の名前が出ておらず、あまつさえ芥川龍之介直木三十五の名前すらなかったことです。それではとても「解説」とは言えないだろうと思うと共に、芥川賞直木賞についてろくに知らないのはもしかしたらこの書評家自身なのではないかとさえ感じました。また「ずくめ」を「づくめ」と誤記している箇所もあり(現代は「づくめ」が許容されているとする辞書は一応ある)、いったいこの人は誰なんだろう…と。

それだけではありません。note記事を連携したツイートを「作家13年目」だという人が引用リツイートしていて、「『そうなのか…!』と思いながら読んでる」と書いていました。

私はしばらく口を空けていましたが、まぁ…れっきとした事実ということです。

こじらせワナビの心情と行動

もはや趣味というより…

モリナガアメ『かんもくって何なの!?――しゃべれない日々を抜け出た私』(合同出版、2017年)を読みました。

国内であまり知られていない「場面緘黙症」を患う著者が、生きづらい人生をもがきながら生きてきた記録です。記録ではあるものの漫画であり、けっこう強調されていたりコミカルにされていたりする箇所はありますが、親や他人から受けてきた虐待も描写されていて、読むのに気力が必要な、壮絶な内容だと思います。

私は著者による本書の次の著書『話せない私研究――大人になってわかった場面緘黙との付き合い方』(合同出版、2020年)を先に読みました。これほどまでに生きづらい中で、漫画を描くことにしがみつくように生きてきた著者の生き様に心打たれ、本書も手に取った次第です。また私は「私小説」をよく読むのですが、著者の生き様は私小説家のそれのようであるとも感じられ、異様な感銘を受けています。

本書では、著者の場面緘黙と、著者が受けてきた虐待が分かちがたく結びついていると思われるところがあり、場面寡黙そのものについては分かりづらい感じがしました。とはいえ、漫画にしがみついて生きる著者の精神と行動は、やはり心を打つものがありました。

いわゆる「普通の」学校生活や友人関係ができなかった著者は、それでも人生を前向きに生きる気持ちを失いません。しかし、社会に出ても勤め先でうまくいかず挫折。漫画の執筆にしがみつくようになるのはこの頃からです。

「今の私にはこれしかないんだから全力でやらなきゃ
これでも自分に変化がなければその時私は死ぬしかないんだ…」
それはもはや趣味というより病んでいるがゆえの鬼気迫った暴走だった気もする

趣味だった漫画が、趣味ではなくなった。

著者は漫画をネット発信することに賭け、作品を発表し続けます。漫画家になりたい、と明確に思っていたかどうかは分かりませんが、上記の引用箇所を読み、私は著者は漫画家の「こじらせワナビ」だったと思いました。漫画でも小説でも俳優でも、ワナビはこじらせてしまうと、取り組む対象が趣味ではなくなります。最初は趣味だったかもしれませんが、それで一廉の人物になれるかどうかがアイデンティティ確立の成否を分けるまでになるからです。著者の「趣味というより病んでいるがゆえの鬼気迫った暴走」とは、まさに、こじらせワナビの心情と行動そのものではないでしょうか。

ドーパミンとの付き合い方

油断は禁物

人間の脳は、ドーパミンオキシトシンセロトニンという物質の分泌により、幸福感を覚えるそうです。そのことから、この三つの物質は「3大幸福物質」と呼ばれているそうです。

セロトニンは、爽やかであったり安らかな気持ちになったりしたときに出る物質で、主として心身の健康につながっているらしい。オキシトシンは、家族や友人などの人間や動物とのつながりや愛情を感じることで出る物質とのこと。そしてドーパミンは、ドキドキしたり、興奮したりすることで出てくる物質で、高揚感をもたらします。しかしこのドーパミンに限り、セロトニンオキシトシンと違って中毒性があるとのことで、同じ体験では次第に満足できなくなり、次々に新しい体験を求めてエスカレートしていく傾向があるそうです。

過去にもこのブログで書きましたが、この3大物質は、セロトニンオキシトシンドーパミンの順で下から上へピラミッド状に積み上げるようにあるのが良いと、精神科医である樺沢紫苑は『精神科医が見つけた3つの幸福 最新科学から最高の人生をつくる方法』(飛鳥新社、2021年)で述べています。

つまり、心身の健康が基礎にあり、その上に人間関係があって、その上で快楽やお金や成功を得るのが良い、ということ。私は二十代から三十代にかけて、藝術家としての成功を夢見て頑張りましたが、心身の健康を損ない、こじらせてしまったために友人関係も壊れてしまった挙げ句、けっきょく藝術家の成功は摑めませんでした。これは言うなれば、ドーパミンに翻弄されてセロトニンオキシトシンが不足し、健康も人間関係も損なってしまった、ということかと思います。

現在は状況がいくらか改善していますが、油断するとすぐ不味い状態になります。例えば私はゲームに夢中になりやすく、夜中までやりこんでしまって睡眠の質を落とし、翌朝は不快な状態で起きる、ということがたまにあります。ドーパミンに翻弄されやすいのです。

私はもしかすると、ドーパミンに敏感であるという特性を持っているのかもしれません。それを活かすことができれば、ひょっとしたら成功を摑めるかもしれませんが、これまでの人生を思うと、ドーパミンとはうまく付き合っていかなくてはならないと強く思います。

人を夢中にさせ、中毒にしてしまうものは多くあります。ゲームはもちろん、お酒、ギャンブル、恋愛などです。それらの内のどれかを始めると、つい夢中になってしまうという人は、その方面の才能の欠片を持っていると言えると思います。けれども、くれぐれもドーパミンに翻弄されず、うまく付き合っていくといいでしょう。

松本清張「地方紙を買う女」

1957年の作品

松本清張の短篇「地方紙を買う女」(『松本清張短編全集06 青春の彷徨』(光文社文庫、2009年)所収)を読みました。

本書の清張自身による「あとがき」を読むと、本作の初出について「『小説新潮』に載せたと思う」と書いてあります。手元の赤塚隆二『清張鉄道1万3500キロ』(文春文庫、2022年)で確認したら、「小説新潮」の1957年4月号であることがわかりました。

Wikipediaを参照すると、本作は清張原作で初のドラマ化作品であるらしい(1957年)。その後も何度もドラマ化され、また映画化もされています。

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清張自身の経験からの創作

※以下、ネタバレを含む内容になります。

戦後、シベリアに抑留された夫の帰りを待つ潮田芳子は、バーに勤めて女給をして生きていましたが、デパート警備員に万引き犯に仕立てられ、体と金を奪われます。夫の帰国が迫ったため、警備員とその愛人を連れて遠出をし、毒殺して心中を装います。二人の死が警察に心中と扱われたかどうかを確かめるため、殺した場所の地元新聞を、連載している「小説が面白そう」という理由をつけて東京から購読します。二人に関する記事を読み、犯罪だとばれなかったことを確かめると、こんどは「小説がつまらなくなりました」という理由で購読をやめますが、新聞社は購読申し込みの手紙も含め、それらを作者である小説家に読者の反応として渡していました。小説家の杉本隆治は、小説がまだ面白くなっていない段階で購読を申し込まれ、面白くなってきたところで「つまらなくなった」とやめられたのを不満に感じ、読者である潮田のことを調べ始めます。やがて、潮田が心中に関わっていたことを知ります。

「あとがき」によると、清張は朝日新聞にいた時代、有楽町駅前で地方紙の立ち売りを見たらしい。全国各地の地方紙が一日か二日遅れで売られていたらしく、多くの東京に住む地方出身者が郷愁をそそられて買っていたとのことです。また清張自身が新聞社を辞めた後、地方新聞に小説を書いた経験がありました。「地方紙を買う女」は、そうした複数の経験が盛り込まれて作られています。

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語りの巧みさ

背景には、潮田がシベリア抑留になった兵隊の妻であるという、戦争の陰の部分が描かれてあるわけですが、作品自体は推理小説です。深く追究されたテーマがあるとはいえず、どのキャラも特徴的とは思えません。しかし、さすが清張。語りが巧みです。読ませます。

テーマやキャラが弱くとも、語りの巧みさで読ませる作品に仕上げられるということが、本作を読むとよく分かります。

あるブログで、松本清張芥川賞作家の中で最もストーリーテリングが巧みだと書かれていました。本作をはじめ、清張作品が何度も映像化されている理由の一つはそれではないかと感じます。

バルザック「ゴプセック」

ストーリーよりキャラがすごい

バルザックの短篇「ゴプセック」(『ゴプセック・毬打つ猫の店』(芳川泰久訳、岩波文庫、2009年)所収)を読みました。

本作は1830年に他の短篇とともに刊行された、「人間喜劇」の「私生活情景」に含まれている作品です。もともとは「身の過ちの危険」というタイトルでしたが、その後「パパ・ゴプセック」に変わり、最終的に「ゴプセック」になったとのことです。

本書のストーリーをかいつまむと、代訴人のデルヴィルが、グランリュウ子爵夫人の娘カミーユが恋をしているレストー伯爵の財産について、子爵夫人に物語る、という内容です。レストー家の財産の物語とは、かつてデルヴィル自身と高利貸のゴプセックが関わったもので、伯爵の母親の不倫と浪費、父親の死などが絡み合っています。これはこれで面白いですが、読みどころはやはり、冷徹な高利貸のゴプセックじいさんのキャラクターの強烈さではないかと思います。

ストーリーだけでは特に面白くはないと感じます。そのストーリーの中にバルザック特有の、狂信者のような力強いキャラクターが躍動するからこそ、バルサック作品は面白いのです。他の作品からそのキャラクターを挙げろと言われれば、『「絶対」の探究』のバルタザール、『ゴリオ爺さん』のゴリオ、『ウジェニー・グランデ』のグランデ爺さん、「ツールの司祭」のトルーベール師などが好例ではないでしょうか。小説はストーリーを読ませるものですが、そこに活躍するキャラクターも劣らず重要です。

さて、本作は解説を先に読んでから作品を読む方が良いと思います。いや、それどころか、解説を先に読まないと楽しめないのではないか。小説の文庫本はだいたい作品を案内する解説がついています。推理小説などでネタバレを避ける場合を除き、解説を先に読んでから本篇を読んで差し支えないのではないかと思います。旅行が訪問先の知識をあるていど頭に入れてから行くと楽しめるように、小説もその世界をあらかじめ知ってから読む楽しめるのではないかと。