杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

トラップ、パス、ドリブル

コミュニケーションの科学

吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(太田出版、2015年)は、他人とのコミュニケーションをゲームと捉え、「気まずさ」という敵を倒すための様々な技術を紹介する本。

その中に会話の技術を説いているところがあります。相手の話を受け止める、質問をする、回答や感想で自分の話をする、という会話の三つの要素を、トラップ、パス、ドリブルというサッカーの用語で説明していて、分かりやすいです。

私は他人との会話が得意ではなく、などと会話が終わった後に、うまく自分の考えが話せなかった、喋り過ぎた、などと後悔することが少なくありません。それこそ「気まずい」空気になることは多いと感じています。よしこんどこそはあの人と上手く話そうと思い、話題を探したり、色んな角度から質問してみたりして、まあまあうまくいったものの終わった後はぐったりする、などということも珍しくない。

以前ようつべのビジネス動画で、雑談は難しい、と某社の社長が話していたのを見ましたが、たしかにそうだと思います。

この本の面白いところは、会話などのコミュニケーションをゲームと捉えているところです。だからトラップ、パス、ドリブルも技術として語られている。上手くいく時があればそうでない時があり、練習も必要なのでしょう。そしていくら練習して上手くなったとしても、失敗とは無縁になれません。しかし、失敗を重ねることで失敗を減らせる確率が上がっていき、成功が増えていくのでしょう。

中流危機

従来のシステムが完成していた?

9月18日に放送されたNHKスペシャル「“中流危機”を越えて「第1回 企業依存を抜け出せるか」」は、いろいろと考えさせられる内容でした。

日本は世帯所得の中央値がこの四半世紀で約130万円減少し、所得中間層(中流)の人々が今、危機を迎えている。年功賃金や終身雇用といった、社員の人生を企業が丸抱えする雇用慣行が限界に達し、賃金の低下が消費の減退を招き、さらに賃金を減らしているという負のスパイラルを引き起こしている、という内容。

考えさせられたというのは、自分はこういう問題の存在を認識し、誰もが企業依存からの脱却を図るべきで、かつ実際にさまざまな行動をしている人を複数知っていたので、この番組に出ていた中流サラリーマンは意識が低いのではないかと感じたものの、副業や復業をしても「中流」という大きな層の一員であることは変わらず、その危機的な流れから本当に脱け出るにはもっと力を注がなくてはならない、と感じたことです。

また、グローバル化やIT化の波に乗り遅れた日本企業の多くは、社員の給料を調整することで雇用を守ったものの、その結果が中流の危機という姿で現れている、という解説者の言葉が印象的でした。それはただの怠慢ではなく、従来の「企業依存システム」があまりに完成されていたからこそ、時代の変化に合わせて転換することが容易ではなかった、ということではないか、と思いました。

歴史はジグソーパズル

ナチスユダヤ人大量虐殺「ホロコースト」に関する定説の正当性をめぐる、イギリス人作家デイヴィッド・アーヴィングとアメリカ人歴史学者デボラ・E・リップシュタットの法廷闘争に関するテレビ番組を見ました。

私は、専門性などは少しも持ち合わせていませんが、歴史を学ぶのは好きなので、その番組はとても興味深かったです。

一般に広く浸透している歴史の定説は、実は間違っているかもしれない。例えばそんな風に、100%確かな証明ができていない定説に疑義を呈し、悪人と伝えられている人物は実は悪人ではない、という言説を繰り出す。それを広めることで、悪人ではないことが定説になっていく…。

すごいことですが、アーヴィングという作家はそれをやろうとしたとのこと。それを歴史学者として見過ごすことができなかったリップシュタットが、言論をもって敢然と立ち向かい、果ては裁判にまで発展したのです。すごい。

ジョセフィン・テイの『時の娘』(ハヤカワ文庫、1977年)は、悪王として有名なリチャード三世は本当に悪かったのか? といった疑問を巡る歴史ミステリです。アーヴィングとリップシュタットの闘争と争点が似ている気がします。

番組に解説者として出演していた日本の歴史学者が、歴史を書くのはジグソーパズルをつくるのに似ている、と話していたのが印象的です。史実を一つずつ収集し、パズルのピースを組み合わせるように記述するのが歴史家の仕事だが、ピースが全て揃うことはない。欠けている部分は、周辺のピースのつながりから推論するしかなく、新たな史料が見つかるごとに、一歩ずつ理解が更新していく。その膨大な集積が歴史なのであり、アーヴィングは、パズルの全体を見ることなく部分的な欠陥だけを指摘し、全体を覆そうとしたのだ、と話していました。なるほど。

出版事業は文化事業

う~む…いろいろと、考えさせられる記事です。

特に、『漫画編集者』の文章が引用されているあたり。

《敗北宣言に聞こえるかもしれませんが、出版業を成り立たせることって、もしかしたらかなりむずかしいのでは?と思ったりもします。本業を別に持っている会社が、文化的な意味あいで展開していくという業種なのかなぁとさえ思います。》(『漫画編集者』p.296より。小学館IKKI」元編集長・江上英樹さんの発言)
最大手のひとつである小学館の敏腕漫画編集者がそう思ったりするのだとしたら、その認識は当たっているのではないでしょうか。
私はこの言葉を読んでベネッセ(福武書店)、サンリオ、キノブックスのことを思いました。いずれも出版とは別の本業を持っていて、文化事業として出版をやってきた会社です。

美術館なんて儲かるはずがない、と聞いたことがあります。出版もまた、儲かるはずのない、赤字前提の文化事業、ということなのかも。

藝術、出版、そして文学も、ビジネスとしては成立せず、どちらかといえば補助の対象ですらあるのかもしれません。

近代イングランドのエステイト関連市場

バルザック『農民』が思い浮かぶ…

高橋裕一「研究ノート 一七世紀末期イングランドに見る土地関連市場の一側面――ビジネス・エイジェンシーとしてのコーヒーハウス――」(「史学」第九〇巻第二・三号抜刷、2022年)を、著者からいただいて読みました。

著者からは以前も、「『教材』としてのダニエル・デフォー(1660ー1731年)―ジョナサン・スウィフト(1667ー1745年)との対比も含め―」(慶應義塾大学教職課程センター年報、2019年度)をいただいて読み、これが面白かったですが、今回いただいた「研究ノート」も面白かったです。

クロムウェル体制期に登場したコーヒーハウスの一つ「ザ・ブルー・ボール」。その中に開設された「ジ・オフィス」で発行されていた、広告用のブロードシート(ビラ)。その中の、唯一現存している132号の記載内容を元に、イングランドで発展途上だったというエステイト関連市場の取引や仲介の実態について考察する内容です。エステイトとは「地所」「土地」といった意味で、主に田舎にある広大なそれを指すらしい。近代イングランドでは官職や法曹、新富裕層が競って主に農村部のエステイト所有に走ったそうですが、オフィシャルな権利登記システムなどが存在していなかったことなどから、その実態があまり知られていない、とのこと。「ザ・ブルー・ボール(青玉亭)」のブロードシートは、その未解明の実態をごくわずかではあるものの窺わせる史料だということですね。

都市の富裕層が田舎の土地を買って進出するというと、バルザック『農民』に描かれた闘争の構図が思い浮かびます。イングランドにおいてもそういう構図があったのかは知りませんが、あったとしたら、その一端をロンドンのコーヒーハウス「ザ・ブルー・ボール」が担っていたのかもしれません。面白い。

また「コーヒーハウス」といえば、松岡正剛の「千夜千冊」で小林章夫『コーヒー・ハウス』が紹介されていたのを記憶しています。本書は1984年に駸々堂出版から刊行されていますが、今は講談社学術文庫で読むことができるので、本稿に書かれているエステイト取引の背景のみならず、当時の市民生活の雰囲気を知るために、こちらも読んでみたいなと思いました。

本稿に「得べかりし収入」という言葉が登場するのですが、これは本来得られるべきであったにも関わらず得られなかった収入のこと。「逸失利益」ともいい、損害賠償において請求できる損失の一つであるらしいです。

高橋裕一先生の他の論文(CiNii)

レファレンスは探偵

福本友美子作、たしろちさと画『図書館のふしぎな時間』(玉川大学出版部、2019年)を読みました。私は図書館勤務のレファレンス係を主人公にした推理小説を書いたことがあったため、この本のタイトルを見た時、自分が書いた作品との類似性を感じて手に取りました。

母親と一緒に上野の国際子ども図書館に女の子が、本の中に住んでいる妖精に会い、その妖精に連れられて図書館を探検する話です。国際子ども図書館の特色と魅力を紹介する内容になっています。

妖精が紹介していく中で、図書館のレファレンス係が登場します。子供の頃に読んだ本のことを忘れてしまった大人から、その本に関する思い出を聞き出し、目的の本を探し出す仕事として、紹介されます。「ゆりか」という主人公は「たんていみたいだね」と言う。

たしかにレファ係は探偵のようなところがあります。私が書いた推理小説でも主人公はレファ係として、利用客が求める資料を推理で探っていきます。また、以前に読んだ門井慶喜『おさがしの本は』(光文社文庫、2011年)も、主人公はレファレンス・カウンターで勤務し、依頼された本を推理力を駆使して探します。

ブログをやって良かったこと

上位3%に入った

ブログを続けられる人はけっこう少ないらしいです。2009年に行われた総務省の調査では日本のブログの継続率についての調査が行われていて、開設1年後の継続率は30%、2年後だと10%、そして3年後だとわずか3%と、1年経つごとに約三分の一に減るという推計結果が出ていました。

私がこのブログを開始したのは2018年の3月なので、私の継続力は上位3%に入るレベルだと考えて良さそうです。また、私が読者をしているブロガーにも、同じように継続率上位3%に入る人はいます。逆に、以前はブログを続けていたのに止めてしまった知人も、もちろんいます。

ブログ継続の大きな壁は、ネタ探し、そして執筆し続けることの大変さでしょう。私は、自分で言うのもなんですが、好奇心があって、気が多い方だと思っています。それが幸いしてか、普段からブログのネタになるような情報を見つけることは苦ではありません。また、書くことも昔から好きだし得意なので、続けることが大変とは思わない。実際には、新記事を書くことが大変だったことは何度もありますが、自分のそういう資質を生かすことで発信し続けることができたと思っています。

上位3%に入っているという事実は誇らしい気もしますが、世の中には私の倍以上、私と同じように一日も欠かさず続けている人はいます。また私はブログ記事よりも作品をもっと発信していきたいと考えているので、まだまだだ、と思っているというのが正直なところです。

ブログを続けてきて良かったな、と思うのは、考え、書くという行為を通して、自分の頭の中にある思考や思想を多少なりとも整理し、アウトプットできたことです。そしてそれを続けることで、次第に思考が深まり、レベルアップしていると感じることも少なくありません。もちろん、人間は誰しも年齢を重ねれば見識が高まり、思考も深く多角的になるのでしょう。しかし、これだけの記事を考え、書いてきたことは、それらを一層推し進めているような気がします。

また、ブログを通じて新しい「縁」ができたこともうれしい収穫です。