杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

柳川一「三人書房」

柳川一「三人書房」を読みました。この小説は、若き日の江戸川乱歩が営んでいた「三人書房」という古本屋を舞台にしたミステリです。殺人事件は起きませんが、松井須磨子自死に関わる巷間の事件を追究する内容になっています。第18回ミステリーズ!新人賞受賞作です。

語り手は井上勝喜という、乱歩の鳥羽造船所時代の同僚です。物語の舞台は大正8年で、乱歩はまだ探偵小説家としてデビューする前ですので平井太郎という名ですが、井上は「彼は既に、江戸川乱歩だった」と述べる。それほど、本作を巡って平井が示した謎解きの手腕がすばらしい、ということでしょう。

事件は松井須磨子が送ったと疑われる手紙の出現で始まります。手紙の送り主の名が『源氏物語』に絡めた謎になっていたり、当時よく起きた心中事件や自殺のことが言及されたり、藝能記者が出てきたりします。最後の種明かしは、読むと乱歩がいい人に見えます。

情報生産者

図書館でたまたま見つけて手に取った、上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書、2018年)。その冒頭「はじめに 学問したいあなたへ」を読み、次の箇所に共感を覚えました。

情報の消費者には「通」から「野暮」までの幅があって、情報通で情報のクォリティにうるさい人を、情報ディレッタントと呼びます。もちろん質の高い消費者がいるからこそ、情報のクォリティも上がるのですが、情報も料理も、消費者より生産者のほうがえらい! とわたしは断言します。料理だって、グルメの消費者より、料理をつくるひとのほうが、何倍もえらいんです。なぜかって、生産者はいつでも消費者にまわることができますが、消費者はどれだけ「通」でも生産者にまわることができないからです。

べつに生産と消費の両方の立場になれるから、その人が「偉い」ということにはならないでしょうが、これは上野の思想表明ともいうべき文章で、私は共感しました。

ここにある「情報ディレッタント」には、ときどき出くわします。やたら博識で、いろんなことに詳しい一方で、それをひけらかしたり、こちらにマウントをかけてきたりする人です。その人の勉強量と知識の広さには感服する面もありますが、かといって、自ら著作することはありません。それでいて、こちらが書いたものに対してはやたらうるさく注文をつけてくる。そういう相手はたいてい、私より立場が上の人なので、特に仕事の取引相手などの場合には黙って従いますが、心の中では「書けねぇくせにエラそうに」と思っています。

それは、ひょっとしたら上野の言う「情報ディレッタント」とは違うかもしれませんが、消費者よりも生産者のほうが偉い、と私も思います。情報を生産する人は、仕事のオーナーになれます。情報を消費するだけの人は、オーナーにはなれません。別のオーナーが生み出した情報を消費し、再現することくらいしかできないだろう、と思っています。

エドガー・アラン・ポオ「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」

エドガー・アラン・ポオの長篇小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」(『ポオ小説全集2』(創元推理文庫、1974年)所収、大西尹明訳)を読みました。

この小説はポオ唯一の長篇で、ジュリアン・シモンズによるポオの伝記『告げ口心臓』(八木敏雄訳、東京創元社、1981年)には1838年に出版されたと書いてあります。ポオは1809年生まれなので、30歳になる前にこの長篇小説を書いたことになります。

その内容は、平たく言えば海洋冒険小説ですが、ポオ一流の怪奇と幻想に彩られた独特の世界になっています。しかも、捕鯨船の中の様子やそれを襲う嵐、人肉食や、南海の島にいる未開の土人や彼らとの戦闘なども、分厚い描写によってリアリティが維持されていて、読者を圧倒します。

本書は「地球空洞説」を採用したと言われているようですが、南極近くと思われる島や海に地底世界に続くような「穴」とか「裂け目」など、またそれを想起させる記述は、明確には見当たりませんでした。もっとも、ポオは別の小説「壜の中の手記」や「ハンス・プファアルの無類の冒険」などでも「地球空洞説」を暗示する記述を行っているらしく、本作はそれらと類似の箇所を指して予想されているだけなのかも。

本作はハーパーズ社というアメリカの出版社から刊行されました。ポオは、写実的で血なまぐさい作品を書くよう出版社から要望されて本作を書いたそうです。当時は恐怖・冒険小説が流行していて、本作はそれに迎合するものだったらしい。しかしポオの才能はその目的を達成するために力を発揮できなかったようで、実際の航海記のように受け取った読者からは奇想天外さに不満を示され、フィクションと受け取った読者からはその恐怖が悪趣味とされたそうな。一方、イギリスでは好評を博して再版もされたとのことです。

黄葉の赤塚公園

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板橋区の都立赤塚公園が黄葉しています。

赤塚公園は、都営三田線「高島平」駅から徒歩五分ほどの場所にある公園で、シンボルである噴水とその周辺の公園を含む中央地区の他、首都高速5号線をくぐった先にある辻山地区、徳丸が丘緑地地区、番場地区、沖山地区、大門地区、そして城址地区と複数の地区に分かれています。

秋になると黄葉がすばらしいです。

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今回、散策したのは中央地区と番場地区、沖山地区でしたが、他の地区にもいいところがあるかも知れません。

仕事と自己実現

最近、キャリアや仕事への意欲の保ち方などについて、人と話す機会がありました。その話し合いの中では「成長」というキーワードが頻出していたように記憶しています。

私としては、仕事を通して自分の「成長」を期するのは、悪いことではないが義務でもないため、その話し合いは私にとっていまいち腹に落ちない、気持ちのよくないものでした。

以前このブログで「やりがい搾取」について書きましたが、給料に満足していない、業務内容にやりがいを感じない、という社員に対し、そういう不満はあるだろうが君はまだまだ「成長」できる、だから頑張ろう、と引き続き働くことを促す行為も、やりがい搾取に通じるものがある気がします。

「成長」は自己実現に結びつきやすいキーワードです。ですが、人間は仕事を通して自己実現をしなくてはならないわけではありません。冒頭に述べた話し合いは、全体に、仕事を通して自己実現しよう、といった雰囲気が強く、恐らくそれが私が気持ちよくなれなかった要因の一つではないかと思います。

ちなみに私は、個人的には仕事で自己実現するのはけっこうなことだと思うし、私自身、仕事で自己実現しようと頑張っている面があります。ですが、そういう考えはあくまで私個人のものであり、他人に押し付けるつもりもなければ推奨するつもりもありません。仕事にどのような姿勢で臨んでも、それは当人の勝手でしょう。

佐伯一麦「虫が嗤う」

佐伯一麦の短篇「虫が嗤う」を読みました。これは「海燕」1985年6月号が初出で、単行本『雛の棲家』(福武書店、1987年)に収められました。

内容は、言わば「海燕」新人文学賞を受賞した「木を接ぐ」の続篇で、生まれたばかりの赤ん坊を育てる主人公夫婦の危機を描いています(発表時期も「木を接ぐ」の次で、受賞第一作になります)。妻には前に付き合っていた男がいて、主人公は自分の子はもしかしたらその男の子なのではないかと疑いますが、最後は和解します。そういう話の中に、主人公は体内に脂肪の塊ができて大きく腫れてしまい、手術でそれを取り除くなどの挿話が入ってきます。

現在と回想が入り交じって語られ、その文章がいつのことを書いたものなのかが分からなくなる読者は少なくないでしょう。しかも「木を接ぐ」を読んでいないと分からなそうな記述もあり、作者自身も混乱しながら書いたのではないかと思いました。

この短篇の最後に、主人公が妻に「戯れ唄」を歌う箇所があります。

おいらも、ひらひら
おまえも ひらひら
あいつも ひらひら
日本中 ひらひら

吉田拓郎作曲の「ひらひら」です。主人公は妻と出会った夜にも酔っぱらってこの歌をうたったようで、この小説が事実そのままなら、佐伯は「ひらひら」をよく歌っていたのでしょう。

消耗戦

小手鞠るいの小説『いちばん近くて遠い』(PHP研究所、2014年)を読んでいたら、舞子という登場人物による、ライターに関する次のような台詞がありました。

フリーライターというのはね、消耗戦を闘っている二軍の選手みたいなものなのよ。将来性がないの。言葉はきついけど、使い捨てのカメラみたいなものね。誰かにインタビューをして写真を撮って原稿を書く。書かれた原稿が活字になる。雑誌が発売される。でもそれが、何か大きなもの、実りあるものにつながっていくということは、まずないのね。ひとつ書いたら、それで終わり。また次を書く。つぎつぎに書いて、つぎつぎに仕事をこなして、つぎつぎに忘れられていくの。(後略)」

私は本書をぜんぶ読んでいませんが、舞子は都内の私大を卒業後、製薬会社の総務部に勤め、退職後は派遣社員として複数の会社を渡り歩き、小説内の現在はフリーライターです。派遣社員時代に、学生結婚した男との離婚を経験しています。そして、引用した文章の通り、どうやらフリーライターの将来には見切りをつけていて、小説家になるために作品を書いています。

本書のストーリーはひとまず置いておいて、ライターである舞子のこの「ライター観」とでもいうべき批評は、ライターをやっている私には考えさせられるものがあります。

ライターという仕事を続けていると、たしかに、次から次へと原稿を書くものの、それらが次から次へと消費されるだけで、がむしゃらに働いていたらいつのまにか疲労困憊していた、という一種の消耗戦を闘っているような気持になることがたまにあります。他のライターと話していても、そういう意味のことを聞かされることは少なくありません。

上に引用した舞子の考えは、ライターという仕事をだいぶ悲観視しているように感じます。ライターには、他の仕事では得難い喜びと面白さがあるのは事実です。しかし、署名原稿を書くでもなく、専門性も持たずにライター仕事を続けていたら、ただクライアントにいいように使われ、やがてもっと元気のある若手にそのポジションを取って代わられる運命にあるのは、少し考えれば分かることと思います。

舞子が小説に望みを抱くのは、ごく当然のことかもしれません。小説家という職業はライターの延長線上にあるわけではありませんが、自分が著作権を持つ著作物が蓄積されれば、それは自分の資産になっていきます。ライターがクライアントから仕事を受注して、書いて、納品するのとは仕事の仕組みが根本的に違います。

ちなみに多くのライターは、小説家を目指すことをせず、編集者か、専門ライターになって収入を増やす道を歩むはずです。

いずれにしろ、頼まれたライター仕事は何でも引き受けるような働き方を長年続けるのは、体力的にも精神的にも厳しいと思います。五十代になってもそういうライターを続けている人を見たことはありますが、大変です。消耗戦というと言葉が悪い気がしますが、そういう側面があるのは否定できません。また、舞子の進路選びが妥当かどうかは別として、ライターを続けながら次のステップを見据えて行動するのは大事だと思います。