杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

お金のはなし9 投資と投機

前にも書いたが、ときどき知人とお金、中でも投資について話すことがある。けれどもどの知人も、話を聞いていると、当人が関心があるのは「投資」ではなくどうやら「投機」であるのが分かり、残念な気持ちになることが多い。

ここでいう「投機」とは、平たく言えばギャンブルである。株を安く買って高く売り、売却益を狙うことだ。対してここで言う「投資」とは、中長期的な投資の計画を立て、投資先について調べた上で買い、売却益よりは配当金や分配金を狙うことだ。

余談だが、私は株式投資などには詳しくないが「投資」は本質的に色んな物事に通じると思っている。勉強はもちろん、時には遊びも自分への投資になると考えている。投資するものはお金であったり時間であったりと様々だが、そこには目的と計画があり、少ない投資からなるべく多くの成果を得ようとしてあれこれ考えることになる。

一方の「投機」も本質的にあらゆる物事に通じている。勉強をする時、単にいい大学に入りたいからとか、この資格を取ればギャラが上がるから、などと考えるのは投機的ではないか。あるいは部下や後輩を指示する時、単なる安価な労働力と捉えて馬車馬の如くこき使い、自分は楽をしようとするのは投機的ではないか。この場合、きちんと適材適所で配置して本人の状態に合わせた業務の割り振りや指導を行うのは、成長してさらに活躍してくれることを期待した投資になると思う。

つまりは、刹那的か中長期的かの違いかと思う。狩猟型と農耕型の違いとも言えるかも知れない。良い悪いは関係ない。

私は中長期的で農耕型の投資の話をしたいのだが、知人の多くは刹那的で狩猟型の投機に関心が大きいようだ。これでは話は合わない。

ハードボイルド風推理小説

大沢在昌の小説推理新人賞受賞作「感傷の街角」(『感傷の街角』(角川文庫、1994年)所収)を読んだ。冒頭数ページで、これはハードボイルドだ、と思った。

不良少年に依頼され、少年がかつて関係を持った女を捜す、という内容。舞台は横浜だが、六本木なども出てきて、登場人物の雰囲気を通して街の雰囲気も感じられる。

推理小説のような要素はあまり感じなかったが、いくつかの謎がストーリーを引っ張っていく形になっている。私がハードボイルドだと思ったのは、人物の性格とか台詞とか、酒とか車とかの描写がなんとなくそう感じたのだが、実はハードボイルドがどういうものかよく分かっていない。池上冬樹の解説を読むと、本作について生島治郎が小説推理新人賞の選考座談会で、ハードボイルドとはっきり言えないが、ハードボイルドのフィーリングを持った小説だと思う、と言ったらしい。ハードボイルド風推理小説ということか。

知的生活の乱れ

最近、自分の知的生活が乱れていると感じる。

生活上の必要に迫られ、実用書の読書が増えているが、それらは私がこれまでよく読んできた学問・藝術の本とは得られるものの種類がまるで違う。歴史の事実を知る楽しみや、表現の妙を味わう喜びは、残念ながらそこには見出せない。そういう日が続くと、いわば知的・美的な飢餓状態に陥ってしまうのだ。

私は文学作品の味わい方にもちょっと癖があって、現代の小説ばかり読んでいるとなんだかたるんでくる気がするので、ときどき重厚長大な古典作品を読むのである。時にはずっしり重いやつと取り組まないとダメなのだ。乱れるのである。この乱れが、最近感じる知的生活の乱れと似ている気がする。いかんなぁ…と思う。

努力と行動

TBSのドラマ「ドラゴン桜」は6月に放送が終わった。最後まで面白かった。桜木先生が本質的かつ断言的な言い方で生徒などを説得し、鼓舞していく様子は痛快だった。最終回も、それまでの回ほどの強烈さはなかったが、グッとくるものがあった。

女弁護士が免許剥奪に該当する古くさい買収をやろうとするとか、共通テストの成績が悪かった生徒が逆転合格してしまうとか、ちょっとリアリティがないなと感じたところはあった。

その点はやはりエンタメということで目をつぶるとして…受験によって人生は変わる、己を知り、目標と作戦を立て、根気強く勉強し続ければ人生は変えられる、というのは強いリアリティがあったと思う。

俺も東大受ければ良かったなぁ…などと考えるのは愚かなことだが、勉強を続けることで本当に人生は変わると思う。ただし「勉強だけ」ではダメで、勉強し、学んだことを試す「テスト」もやらなくてはならないだろう。勉強や練習は努力であり、努力が実を結ぶようにするには行動をしなくてはならない。その行動が、テストだと思う。努力を通して内部に蓄積したものを世に問うてみることである。スポーツなら練習が努力で、試合が行動に該当するだろう。行動してみて、世に認められると、人生は変わる。

HSPいろいろ

高野優『HSP!自分のトリセツ 共感しすぎて日が暮れて』(1万年堂出版、2019年)を読んでいる。著者は元は会社勤めをしていたらしい漫画家・イラストレーターで、幼時から大人になるまでに経験した、HSPならではの辛い体験を漫画と短文にユーモアを込めて綴っている。

著者が入った会社はデザイン事務所だったらしいが、HSPの傾向がある人にとって、マルチタスクはかなりの心理的負担があるようだ。それは私も常々感じていることではあるが、そもそもマルチタスクは誰にとっても良い環境とは言えないだろうとも思う。

一方でさらに問題なのは、HSPの人は、マルチタスクの中で失敗しやすくなるだけでなく、自分はなんて要領が悪いんだと自責し、自信をなくしてしまうことだろう。HSPでも人の役に立つことはできるだろうが、マルチタスクの世界ではそれが難しいのかも知れない。

また本書を読んで考えさせられたのは、自分がHSPであることが、自己防衛や自己主張の道具になってしまうかも知れないということ。本書では、他人の中に、HSPの人に対しそういう見方をする人がいる、と書いてあるのだが、現にそういうHSPの人はいるかも知れない。自分はHSPです、人一倍敏感なんだから気を遣ってもらわないと困る、などと言い出すのは、もう「敏感な人」とは言えないだろう。

「ちょっと書きたい」人

何人かの、ライターを目指している人と話す機会があった。そうか、ライターをやりたいのか…と思って色んな角度から質問をしてみるのだが、話し終わった時の感想は、たぶんこの人は心底ライターをやりたいわけじゃないな、「ちょっと書きたい」という程度の人だな、というものだ。

執筆量があまりに貧弱で、私からすると「書くのが好き」からほど遠いのである。かといって、では読む方はすごいのかというと、そうでもない。本も雑誌もほとんど読んだ形跡がない。漫画はどうかというと、分からないが。

第一生命の「大人になったらなりたいもの」で小学校の男子は「会社員」が1位だったが、ライターは上位10位にも入っていなかった。だったらこの時代、ライター志望者はけっこう希少なのかも知れない。ところがその数少ない人が、べつに書くのがそんなにい好きなわけではない、となるとライターの世界はこの先いったいどうなるんだろう…と思う。

端倪すべからざる

初めから終わりまでを安易に推し量るべきではない、計り知れない、といった意味の言葉。昔から好きな言葉である。ただし、意味が好きというより、言葉の響きがかっこよくて好きだった。

最初に知ったのは学生時代で、夏目漱石『行人』の中にこの言葉が出ていた。文中にあったこの言葉を読んだ時、意味を知りたくて註釈を見たのを覚えている。岩波の漱石全集で、今ある四六判より大型の全集だった。

この言葉は真理だろう。考えてみれば、物事はなんでも端倪すべからざるものである。私は物を買う時や、相手の人間性を判断する時などに早計に頼ってしまうことがあり、それで失敗したことは少なくない。だから私のような人間はこの言葉を肝に銘じるべきなのだ。