杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

こんな人間もいるんだぞ。

小説は、天下国家を論じる大説の対義語であり、巷間の噂話、小さなお話といった意味を持つ。話である以上、人間たちの間に起きる出来事を通して、人間同士の関係が変化する、といったまとまりのある内容であることが肝要だと私は考えている。一人で漠然と哲学的なことを考えたり、特に人間関係が変化したりしないようなものは、小説というより随筆だろう。

出来事は、連なって一つのストーリーを成す。その推移は、分かりやすく言えば事件が解決するまでの過程であり、読者を惹きつける大切な要素だと思う。そして、その渦中にいる人間の姿(心情や哲学)が、経糸の役割を持つストーリーに対する緯糸の役割を果たすと考える。

ある作家の小説を読んでいて、取り立てて起伏のあるストーリーではなく、面白味に欠けるなあと思ったのだが、キャラクターが実に特異で、そんなに際立っているわけではないものの煮ても焼いても食えぬところがあって、高く評価はできないが無視できないものがあった。なおその作品は私小説であり、徹底したリアリズムに貫かれていたと思われる。ほとんど手記のような作品だが、その点は宮原昭夫の言う通り、作者が自分と主人公を混同していなかったのなら小説といっていいと思う。

当該作品について言いたいのではなく、小説が読者に何を与えるか、について考えさせられるものがあったのだ。世の中では面白いストーリーや際立った人物が注目を浴びるかも知れないが、一般には見向きもされず、わけがわからない奴だけれど、こんな人間もいるんだぞ、というメッセージを届ける側面が、小説にはあるのじゃないかと思う。その点は、忘れないようにしたい。

電子書籍端末雑感

こないだある電子書籍端末が値引きされていたので買おうかなと思ったが、けっきょく止めてしまった。

値引きはいずれまたあるだろうし、冷静に考えて、自分は電子書籍端末がどうしても必要だろうか?と思ってしまったのだ。

ようつべのビジネス系動画では、電子書籍端末を持てば紙の本や本棚は不要になる、紙のように重くもないし読書量も圧倒的に増してメリットだらけ、といった理由で端末が推薦されている。まったくその通りだと思うのだが、買おうとした時、ちょっと躊躇してしまい、最終的に止めたのだった。

たしかに電子書籍端末を持てば、我が家の書棚からけっこうな量の書籍を減らすことができる。鞄に紙の本を入れる必要はなくなり、外出や旅行の時なども便利だろう。また値引きされれば、こんどこそ買ってもいいかも知れない。

ただ、私はビジネス書や新しい小説も読むが、文学研究の一環で過去の文藝雑誌、絶版本、過去の新聞に目を通すことがかなりある。単なる趣味読書、教養を身につける目的でも、古い本をかなり読む。それらの多くは、電子化されていない。となると、必要になってくるのはまず公立図書館であり、次いで公立・私立の専門図書館古書店、アマゾンなどの古書販売になってくる。仮に電子化されていても、図書館なら無料だし、古書店なら絶版でなければ新刊本よりも安く買える、ブックオフなら絶版本でも安く買えるからだ。

ビジネス書にしたところで、発売されてすぐ読みたいのでなければ、少し待てばブックオフに出てくる。図書館だと予約が多くてすぐに読めないこともあるが、他の本を読んで待っていればいい。なお私は発売時に読まなければ価値がないような本を読むことは少ない。

こんなだから、電子書籍端末のメリットを認めつつ、今はどうしても必要というわけでもない。サブスクの読み放題はお得だが、その中に求める本があるとも限らない。私の場合、端末を購入するのが良いかどうかはかなり微妙な問題である。

町田哲也『家族をさがす旅』

町田哲也『家族をさがす旅』(岩波書店、2019年)を読んだ。

これは、証券会社社員であり作家でもある町田が、緊急入院した父の事績を色んな関係者に取材して回る、という内容で、第一章から第四章までは「現代ビジネス」2018年2月1日から8月9日に連載され、第五章とエピローグは本書のために書き下ろされたものである。

父がかつて働いていた岩波映画や映像業界の人たちの名前が多数出てくるだけでなく、著者自身が会社員をしながら小説を書いているということで、いろいろ興味深い。

特に、表現者を志す者が、糊口をしのぐためにしている仕事に追われてしまい肝心の表現ができなくなることの苦痛を、町田が自分と父を重ねて述べているところ、ぐっとくる。

私も家族の事績を辿って関係者に取材をした経験がある。その過程は、家族のことを知ろうとする行動の軌跡でありながら、自分自身のことを知ろうとする思索でもあったように思う。むろん、対象が家族でなくとも、知ろうとする行為の根源にはそういう自分探しめいた側面があるものなのかも知れない。日本映画学校(現日本映画大学)の今村昌平による「理念」に、人間を真剣に問い、それを問う己は何なのかを反問してほしい、といった言葉があるのを思い出した。

創作雑記26 高尚な主題の是非

新しい小説を構想している時、乗り越えるのが難しく、構想の進捗を停滞させる障害物に必ず出くわす。その小説の主題は「高尚」であるかどうか、という課題だ。

主題は小説に深みを与え、読者の感動を深くする効果があるが、私はこれまで、読者の心の最奥部を打つような、ややもすると読者の価値観を丸ごと覆すほどの、深い哲学に裏付けられた、いわゆる「高尚な」主題を求めていたように思う。

例えば、藝術系の学生が就職する過程を描いた小説に、私は「自分の服喪」という主題を設定した。自意識過剰の自分に現実を受け入れさせようとする主人公の行動は、肥大したセルフイメージを埋葬し、しばらくのあいだ慎ましく過ごすという点で、服喪に通ずるものがあると思ったからだ。「自分の服喪」という語を思いついた時は、我ながら良い主題を発見したものだと思った。

そんな風に、主題を「高尚」なものにしようとすることは、小説を書く姿勢として、取り敢えず望ましいと思う。小説を単なるいっときの娯楽とするのではなく、読者の心に残るような作品にしたいとする意識は書き手として大切だと思うからだ。

一方でそれは、色んなものを奪ってしまう気もする。主題を深めようとするのはけっこうな時間がかかると思うが、それだと主題に対応させるべきストーリーの方向性がなかなか固まらない。下手をすると、主題が気にくわないからということでストーリー自体も抛棄することになりかねない。つまり「書く」機会が大幅になくなってしまうのだ。

すでに人気があるベテラン作家ならそれでもいいかも知れないが、実績もない人の場合はとにかく書かなくては文字通り「話にならない」ので、主題の追求もほどほどにしておく方が賢明である気がする。

命の宴の主菜

マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』(SBクリエイティブ、2018年)を読むと、睡眠を敵に回すとどういう目にあうかが分かる。最近、本書に従って睡眠習慣の改善を試みている。まだうまく行かないことも多いが、少しずつではあるものの良い方向に進んでいると感じる。

本書に、シェイクスピアマクベス』に出てくる台詞が引用されている。

睡眠は命の宴の主菜である。

これを元にウォーカーは、シェイクスピアは睡眠の重要性を知っていた、と述べている。

この台詞の背景などは一切知らないが、やはりシェイクスピア、巧いなあ、と思った。「命の宴」とは、脳も含めた様々な臓器とかその機能とか、それらの作用である意識の働きや欲求など、人間の生命活動全般についての比喩じゃないかと思ったが、睡眠がそのエネルギー源の主たるものであるということだろう。

役不足の地獄

近頃、慢性的な役不足状態による地獄を感じる。何に対してそう感じるかというと…それは読者には関係ないので書かないが、役不足状態を長く続けるのは頭にも身体にも毒、ひいては鬱めいた状態や自己肯定感の低下といった地獄に陥ることにもつながるのではないかと考えている。

役不足の役目には「ひりつき」がなく、ギラギラしないので頭にも身体にも悪くて、やがて、どこか鬱っぽい状態になってくる。そんな状態でも人の役に立てていれば問題はないのだが、「ひりつき」がないために、傾ける意識が散漫になると、成果を出す喜びとか前進している実感が薄れ、自己肯定感が弱くなる。また、その程度の役目であれば自分でなくて誰でもいいじゃないかという考えも出てくるから、それなら自分は特段、他人からどうしても必要とされているわけじゃないんだ、という思いも出てきてしまう。すると自己肯定感はさらに下がる。

やはり、相思相愛というか、好きでギラギラできることで、なおかつ他人から必要とされる役目があると良い。それは年齢や経験と共に変わっていくだろうから、人は一つの役目をずっと続けていてはいけないんじゃないか。そんな風に感じる。

とはいえ、簡単ではない。会社においては、社員を役不足状態にするのはパワハラになるらしい。しかし、社員一人一人にとっての上記のような相思相愛の役目を見つけ、それを各人に与えるのはけっこう難しいと思う。

「教材」としてのデフォー

高橋裕一「『教材』としてのダニエル・デフォー(1660ー1731年)―ジョナサン・スウィフト(1667ー1745年)との対比も含め―」(慶應義塾大学教職課程センター年報、2019年度)は、著者からいただいた。著者は慶應大教職課程センター非常勤講師で、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員でもある。

本稿は、「彼(デフォー)の構想や行動を、主に世界史教材の一つとして少し詳しく紹介することで、あえて言えば(高校)生徒が『近現代』を俯瞰的に見つめる眼を養う一助になれば、と願ってやまない」と導入部にあるように、デフォーを高校世界史の教材として役立てるよう提案するものである。切り口は当然ながら『ロビンソン・クルーソー』以外にも多岐にわたっていて、『グレイト・ブリテン全島周遊記』に見られる地理情報、歴史記述の意義の高さ、他にも『疫病年日誌』を通してペストに対する人間の感情に思いを馳せる意義などを述べている。その中のところどころに、スウィフトのことが出てくる。

面白い。なかんづく私としては、デフォーの『プロジェクト試論』を切り口とする、デフォーの金融、商業プロジェクトへの言及が個人的に興味深かった。

面白いが、内容をどれほど理解できたかというと、あまり自信がない。私自身がデフォーについてもイギリスについても知識が浅いことが一因かと思う。が、読めば読むほど、今の私たちを取り巻く社会の形成過程が述べられているように感じられ、興味は尽きない。私も高校生と同じように、もっと勉強しなきゃいかんな、と感じた。

考えてみれば、スタンダールバルザックの生涯と仕事(作品)からは18、19世紀フランスの社会の様相が窺えるだろうし、ゲーテも鷗外も教材になるだろう。もっと言えば、佐伯一麦の人生と著作から、現代日本の労働者の実態や、アスベスト禍など産業に関わる問題を抽出できるだろう。伝記的研究をする過程では研究対象の周辺や人生の社会的な背景を知る必要もある。それを本稿を通して改めて感じた。これからもずんずん調べていきたい。