杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

書き続け、発信し続ける。

ようつべには作家活動をする素人、言わばワナビを応援する人による動画もあり、ちょくちょく見ている。その中に、今の時代は賞を取って商業デビューするだけが作家になる手段じゃない、1円でも稼げばもうプロ作家と言える、と言っている人がいて、そうか、そういうもんかぁと思った。一方、別のある人は商業デビューすることがプロ作家の条件、と言っていた。これも、そうだ。と思う。ちなみに私自身は1円でも稼ぎたいという思いもあるので、賞への挑戦をしつつ、そこへ向けて行動してもいる。

1円稼ぐか、商業デビューか。見解はさまざまだろうが、書き続け、応募も含めて発信し続けることが基礎になることは変わらないだろうと思う。これがない限りは1円も賞もないわけで…つまりはやっぱりうだうだ言ってないでまずは書け、ということ。

書き手の幸福

北方謙三『生きるための辞書 十字路が見える』(新潮社、2020年)の「男は心の無人島を求めるのだ」は、北方先生の愛読書に関する文章で、ここでは『ヘンリ・ライクロフトの私記』と『スイスのロビンソン』が挙げられている。その中で、書き手としての姿勢を表す文章がある。

 忘れられていい、と私は自分の作品については思っている。一度、読まれてしまうと、そこで一回は作品は生きた。それだけで、書き手としては幸福ではないか。そう思っていなければ、書けない。一行書くたびに、これでいいのかと自問をくり返し、一日に五行ぐらいしか書けない。だから、眼をつぶる。たとえ駄作であろうと、とにかく全力で書き上げる。傑作は、書こうとして書けるものではない。私の場合は、なのだが。数えきれないほどの駄作の中から、偶然のように傑作が生まれてくるのではないか。振り返ると、駄作しか見えてこない作家人生ではあるが。

では作家が傑作を書こうとして書いた例はあっただろうか、と思うが、そんなことは実際どうでもよく、先生の言う通りだろう。傑作だとか名作だとか、他人からの評価は後で付けられるものなのなんだから…うだうだ言ってないで書けということである。

駄作を世に出す勇気

本の雑誌』に連載中の鈴木輝一郎「生き残れ!燃える作家年代記」をいつも読んでいる。2021年3月号は執筆編「駄作を世に出す勇気が大切でござる」で、書けない時の対処法が紹介されている。

書けない主な原因は、何も思い浮かばない、書くことがない、熟成不足、納得できない、ぜんぶ揃っていても書けない、の五つで、それぞれの対処法も述べられている。

今回のタイトル「駄作を世に出す勇気」は、四番目の「納得できない」の対処法として述べられている。「駄作を世に出す勇気を持て!」とは、島本和彦の言葉であるらしく、島本は他にも「駄作で金をもらってこそ本当のプロ!!」とも言ったそうだ。

読み、反省しつつ頷いた。これまでいくつも小説を構想し、いくらか書いては葬ってきた。「納得できなかった」からである。その背景には、高すぎる理想があったように思う。それはあっても構わないのだろうが、そこに到達できなくても書き、発表しなくては。

写真は撮っておくもの

スマホを持ってから写真を撮るハードルがぐっと下がった。日常生活から仕事の合間まで、あらゆる時・ところでパシャパシャやっているが、最近、写真て撮っておくものだな、と思った。

そもそも私は「記録」を重視しているので、どこかに出掛ければ行った証としてその場所の写真をよく撮る。またブログで面白い場所の訪問記を写真付きで書くことがあるので、とにかく写真を普段からよく撮っている。

最近、小説集を自力で書籍化しようとしているのだが、その表紙をどうしようかと考えた末、かつて撮った写真が小説の舞台を偶然捕らえたものだったので使うことにした。これが、自分で言うのもなんだがなかなか良質なカットで、写真は撮っておくものだなぁと思った次第である。その写真は隅田川を撮ったものだったが、もちろん撮った時は将来小説集に使うことになるとは考えもしなかった。文章も写真も、普段から手を抜かず作り溜めておくといいと思う。

いっそ快眠マニアに…

マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』(SBクリエイティブ、2018年)を読んでいる。睡眠に関する様々な研究の結果を紹介しつつ、よく眠ることが仕事や生活のいろいろな悩みの解決策になる、と説く本。

睡眠や脳に関する本はこれまで複数読んできたが、本書も、睡眠の大切さを教えてくれてためになる。自分が二十代、三十代にどれだけ睡眠をおろそかにし、我が身を痛めつけてきたかが認識できた。なかんづく、睡眠不足が招く病気や障害の深刻さについて、古今東西の例を紹介して述べているところなどは、ゾッとするものがある。私自身、この間はいろいろと忙しくて睡眠をおろそかにせざるを得ない状況だったこともあり、あんな生活を続けたらいずれはこうなるかも…と少し怖くなった。

睡眠時間を削らなくてはならない状況に立たされた人は気の毒だ。私自身のことを振り返ると、特に二十代の前半の頃はときどき徹夜をやり、しかもそれが偉いと思っていた。三十代になるとさすがに偉いとは思わなくなったが、それでも調べ物や書き物のためには睡眠時間を削ることを厭わなかった。今は、いかによく眠り、日中の仕事の質を上げるかを考えるようになりつつある。

困るのは、眠る=休む=働いていない、という図式がどうしても頭から離れないことだろうか。人はなかなか変われない。。いっそのこと快眠マニアになって、快眠のために色んなことを始めてみようかな、などつらつら考えている。

ストーリーが第一

ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』(大出健訳、朝日文庫、1996年)より。

 プロット
 人物描写
 テーマ
 アクション
 ムード
 人目を引くイメージ
 気のきいた文章
 背景

 よい小説においては、これらの要素が渾然一体となって、魅力的なストーリーをつくりあげている。テーマや人物描写がのさばってプロットや他の要素が犠牲になったときには、自意識過剰の純文学作品ができあがる。プロットが幅をきかせて、人物描写やテーマの出る幕がなければ、せまい一つのジャンルのなかで書いているのも同然だ。

 「自意識過剰の純文学作品」というのが言い得て妙だと思う。面白いストーリーがまずあって、そこにテーマや人間描写が織り込まれているということ。クーンツは、テーマは控えめに示し、プロットによってそれとなく暗示されるべきだと述べていて、あくまでストーリーが第一と言う。

三田誠広は「深くておいしい小説」と書いていたが、それと同じことではないか。つまり、経糸(ストーリー)がまずあって、それを深く味わいあるものにするのが緯糸(テーマ、人物)なのだと思う。

ドーパミン

最近、脳の状態や睡眠の質に注意を払うようになった。

完全なにわか仕込みの知識だが、スマホやネットはドーパミンを分泌させやすいため、寝る前には離れて過ごした方が良いということを知った。そしてそれが、経験と共に確信になりつつある。

自分で言うのもなんだけれど、知的好奇心は強い方だと自覚していて、体育会系の雰囲気は苦手だが体を動かすことも大好き。知るのは楽しいし、運動によって得られる爽快感や興奮の味もよく知っているつもりだ。

ドーパミンの分泌は、脳を覚醒させ、注意力や集中力を高めてくれるらしい(ネット情報によるにわか仕込み)。とすると、私はけっこうドーパミンの恩恵にあずかっているわけである。

そのことは、私の人生を楽しいものにし、深く味わいのあるものにもしてくれたと思う。二十代や三十代まではほとんどドーパミンによって突っ走ってきたような気さえする。

しかし最近は、そういうやり方に限界を感じつつある。頑張ればまだいける、という気もするが、そんな風に考えること自体がまたドーパミン信仰なのではないかという気もするのである。思えば、かねてけっこう無茶をしていたし、それゆえに良くない結果にもなっていたはずだが、上記のようなドーパミン信仰によって誤魔化していたのかも知れないとまで思うようになった。信仰は恐ろしいものだと思う。良い結果を生んでいる時は良いのだが。。