杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「ドーハの悲劇」と勝目梓と大沢在昌

大沢在昌『売れる作家の全技術』(角川書店、2019年)は、小説家を志す人を対象に行った小説講座をまとめた本で、面白くてためになる。小説を書きたくなってくる。しかし書きたくなるだけでは駄目で、書かなくては何の意味のないことも自覚させてくれる。講座の内容とは別に、全体にそんな雰囲気がみなぎる良書だと思う。

さて本書のキャラクターづくりについて教える章の中で、勝目梓とのエピソードが紹介されていて面白い。

今から二十年近く前(一九九三年)、「ドーハの悲劇」ということがありました。カタールのドーハで行われたサッカーワールドカップのアジア地区予選、最終戦の日本対イラク戦で、それまでかなり優位に戦ってきた日本が、試合終了間際のロスタイムにイラクに同点ゴールを決められてワールドカップ出場を逃してしまったという「事件」です。
 その翌日のゴルフコンペで、作家の勝目梓さんと同じ車に乗り合わせて、前夜の「ドーハの悲劇」の話になりました。そのとき勝目さんが、「久しぶりに人間が本当に呆然とする顔を見たね」とおっしゃった。私もまったく同じことを感じていたので驚いた記憶があります。

上記は小説に役立てる人間観察について話している時に話したもので、激しい感情に襲われた人間を見ることがあれば、その様子をよく観察しておくように、と大沢は述べている。

ドーハの悲劇」は1993年10月28日だが、ドーハでの試合のロスタイムに同点ゴールが決まった時、日本は10月29日の0時を過ぎていたらしい。

いずれにせよ、その翌日のゴルフコンペというのは、恐らく10月29日に行われたのだろう。1993年10月29日、勝目梓大沢在昌はゴルフをして顔を合わせている。

こんな伝記的事実が分かるだけでもけっこう面白いのだが、それとは別に、エンタメ作家というのはよくゴルフをするのかな?と思った。

ダークサイド

映画学校のある先生が学生が書いた脚本を評価し「人間のダークサイドがちゃんと描けている」と言っていた。

ダークサイドとは「暗黒面」、つまり人間で言えば怒りとか憎しみとか醜悪な部分、ということになる。たしかに怒りや憎しみといった汚い部分を描くのは人間を描く上で大事だと思うが、どうも先生の言い方を見て、そういう側面を盛り込み「さえすれば」脚本として立派である、と言っているように見えてしまった。

果たしてダークサイドを入れればその脚本は立派なのか。それこそ「スター・ウォーズ」じゃないが、単に悪役・敵役を表す記号のように使われれば、底の浅い娯楽作になってしまう可能性はないだろうか。まぁ、立派かどうかは人の評価に過ぎないのだが…。

ダークサイドを描いていない名作は映画でも小説もたくさんあるように思う。分かりやすいところで言えば、「トトロ」は私はさして名作とは思わないが、あの映画にはダークサイドなんて描かれていない(ちょっと泣いたり叫んだりがあるが)。むしろ人間の可笑しさとか情けなさとか、そういうリアルな部分が伝わってくるのが良い作品のように思う。

笑われていこうじゃねェか

ONE PIECE』の黒ひげのセリフだが、ずいぶん前に登場したが今も覚えている。どんな場面で登場するかは、検索すればすぐ分かるのでここでの紹介は省略しよう。

そうそう。夢や野望を抱いて自分の人生を進む過程では、その生き方が他人から理解されず馬鹿にされることが往々にしてある。思えば、私は大学生時代に周囲に映画監督になると言い、ずいぶん笑われた。

私は柔軟性に欠ける堅物だったので(今もそう)、そういう輩をイチイチ真面目に相手にしようとしていた。しかし、いくら誠実に対応しても理解はされず、ひたすら馬鹿にされ続けるだけである。相手にする必要などないのである。笑われていこうじゃねェか。

事実を基礎にして話すこと

何らかの問題について検討する時はとにかく事実をベースにしないといけないが、これは一人で物事を考えても複数で話し合っても同じである。

ところがこれがなかなか上手くできない。一人で物事を考えるとどうしても理想や願望が強く出てきてしまうし、複数で話し合っていても各々が自分の感情を吐き出すばかりになってしまって、話が進まない。

感情が前に出てきてしまうと、行き着く先は喧嘩である。事実を基礎にして話し合うことで、初めて建設的になると思う。

レファレンスもいろいろ

地元の図書館ではレファレンスも復帰したので、こないださっそく探している資料について聞いてみた。レファレンス窓口担当者は日によって違うのだが、その日に対応してくれた人は資料検索の能力が不足していたようで、こちらが知りたいことは一切分からなかったばかりか、回答してくれた内容にも誤りがあった。これはいかん、と思って諦め、その日は早々に退却した。

図書館のレファレンス担当者の教育や配置は運営サイドでどのように行っているのか、分からない。が、少なくとも窓口対応をする人はパソコンを検索するくらいしかやらないようだ。また私の感じたところでは、こういう資料ならあそこにあるのでは、という感覚やセンスもない気がする。

これまでけっこうレファレンスの方に助けられてきたものだから意外だった。レファレンスもいろいろである。

おせっかい

あまり他人の考え方や行動に口出ししない個人主義者の私だが、最近は「積極的介入」とでもいうべき態度も時には大切だと思うようになってきた。他人を助けようとする場合、当人が私と関わるのを遠慮してきたとしても、少々強引でもいいのでこっちから関わろうとすることが大事だと思うようになったのである。

人が他人からのサポートや介入を断るのには、その相手を嫌いなのと、強がっているのと二種類ある(細かく分析すればもっと多種類に分かれるだろう)。嫌われているなら話は早いが、難しいのは、強がっている、あるいは他人の手をわずらわせまいとする方である。そしてこれについては、相手の感触を確かめながらでも積極的に関わっていく方が良い場合がある。

こういうのは労働集約型ビジネスの現場で重要なのではないだろうか。例えば編集プロダクションではクライアントごとに担当者が分かれていたりして、ある人に特定の時期だけ業務が集中してしまうことがある。当人は自分の責務だからと奮闘するが、放っておけば孤独な中で深夜まで作業し続けることにもなり、精神的におかしくなってしまうかも知れない。こういう場合は周囲の人が積極的に介入する方が良いように思う。要するに少々の「おせっかい」が大事なのではないか。

「高島平文芸」

板橋区高島平に「高島平文芸」という同人誌があったらしい。板橋区立図書館で誌名で検索してみても書誌がなく、現物を読むことができないのが悔しいが、「同人雑誌評の記録」を見ると、「文學界」の同人雑誌評に計3回作品が取り上げられたことが分かる。

その3回の「文學界」同人雑誌評だが、評者は1975年8月号と1976年7月号が林富士馬、そして1978年4月号が久保田正文である。中で林富士馬は「高島平文芸」を、直接的ではないながら、文学青年の集まる同人誌でなく文学同好会と位置付けており、「文学の持つ毒素をできるだけ薄めて鑑賞し、利用しようというのである。」と書いている。

ずいぶん下に見られているな、と思うのでまずは現物を読んでみたいのだが、今のところ見当たらない。この雑誌には芥川賞候補になった作家も参加していたという情報があるので、ぜひ読んでみたいのだが。。どなたか情報をお持ちでしたらお願いします。